2006/10
新幹線と島秀雄君川 治 16


 交通博物館は今年5月で閉館となり、来年10月の鉄道記念日に、新たに大宮に鉄道博物館としてオープンする。

 島秀雄の父、島安次郎も東大工学部機械工学科を卒業して鉄道省に入り、技監まで務めた広軌改革論者であったが、原敬内閣の「鉄道は狭軌で可なり」との決定に署名を拒否して辞職。戦時中の弾丸列車計画で鉄道省に呼び戻された。
 島秀雄も桜木町電車事故の後、技師長を辞任して一度国鉄を去ったが、新幹線建設のために国鉄に呼び戻された。親子2代に亘り全く類似の経過を辿りながら広軌鉄道の建設に生涯をささげたのも因縁のようなものが感じられる。
 徳川幕府は1601年に伝馬制度を設けて旧東海道を始め5街道を整備した。これは参勤交代のためばかりでなく国内交流を盛んにした。しかしながら街道の荷車・馬車の交通を禁止しており、物流はもっぱら船に頼っていた。日本の道路事情の悪さは、道路は人馬のみの通行とし河川に橋を架けない、荷物の運搬を禁止した徳川幕府の道路政策に起因するとも言われている。
 明治新政府は、井上勝を鉄道長長官として全国鉄道網の建設に当らせたことは既に述べたが、鉄道・通信を始め造船・製鉄・繊維工業など殖産興業の多くをヨーロッパの技術に依存していた。その後、技術者の養成、科学技術の振興策が図られ、欧米に急速に追いつきつつも、日中戦争と太平洋戦争による軍需傾斜により技術の停滞を招く。
 戦後、欧米各国との交流が復活し、自主技術の開拓が進められたが、その一つのエポックが東海道新幹線であった。この新幹線建設を技術面で推進したのが当時の国鉄技師長であった島秀雄である。彼は東大工学部機械工学科を卒業して大正14年に国鉄に入り、蒸気機関車の設計を担当した。ちょうどSL黄金時代で、D51(デゴイチ)の設計主任を務めたのをはじめ多くの機関車の設計に携わり、次いで電気機関車の設計にも係わっていく。
 東海道新幹線建設により東京―大阪間を3時間で運行する計画を推進するため、島秀雄は車両・動力・線路・信号・通信・給電などあらゆる面から要素技術の検討を進めている。
 戦後、列車事故が相次いだ。事故の多くは踏切事故、脱線転覆事故、衝突事故である。絶対安全の鉄道を建設するためには「未経験の技術は使わない。実証済みの技術の組み合わせで新幹線を建設する。」これが島秀雄の大原則であった。広軌採用については戦前に満鉄で蒸気機関車や客車製作の実績があり、戦後、海軍技術研究所の航空機設計技術者を鉄道技術研究所に採用して車両台車の振動解析の研究を進めた。電車については戦後いち早く湘南電車で基礎的なデータを集めた。
 昭和39年10月、東海道新幹線は東京オリンピック開催と同時に開業した。新幹線という大型システムは、もちろん島秀雄技師長一人でできたわけではないが、このようなシステムをプロデュースした島秀雄は当代随一のシステムエンジニアと言っても過言ではない。
 島秀雄は機械工学のノーベル賞とも言われるジェイムス・ワット国際賞を受賞し、文化勲章も受章している。


筆者プロフィール
君川治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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